令和4年度同志社校友会三重県支部総会に出席予定の植木学長からのメッセージ

Posted by on 7月 11, 2022 in 未分類

学長からのごあいさつ

1864年、幕末動乱のさなか、新島襄は世界へ目を向け、国禁をおかして脱国し、米国に旅立ちました。アーモスト大学で大いに学んだ新島は、帰国後、1875年に同志社英学校を創立しました。同志社大学の起源は、この英学校創立にあります。1888年11月発表の『同志社大学設立の旨意』には、「一国を維持するは、決して二、三、英雄の力にあらず。実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざるべからず。これらの人民は一国の良心とも謂うべき人々なり。而して吾人は即ち、この一国の良心とも謂うべき人々を養成せんと欲す」と記されています。
知・徳を兼ね備えた全人格教育を目指した新島の意思を受け継いで、本学は「キリスト教主義」「自由主義」「国際主義」を教育理念とする良心教育を実践してきました。真理を愛し人情を篤くする徳、個性を尊重し一人一人を大切にする精神、広い視野をもって世界を捉える力、これらを併せ持つ人物を世に送り出してきたのです。今、社会の諸分野で活躍する卒業生の姿こそ、同志社教育の質を確証するものです。
同志社の完成には何年かかるのかと、初対面の勝海舟に問われた新島は、「二百年の後を期せざるを得ざるべし」と答えたといいます(石塚正治編『新島先生言行録』)。これには異説もあって、原田助『信仰と理想』は、勝に「お前の希望の教育を日本全国に普及するには一体幾年位にて成就する積りか」と尋ねられた新島が、直ちに答えて「凡そ三百年の積りなり」と言ったとしています。後者によれば、あるいは通過点にすぎない創立後二百年の2075年をも越えて、三百年後という遠くを見つめながらじっくりと、同志社大学は進化し続けます。

研究分野 中世歌謡・芸能
著書   『梁塵秘抄』(角川ソフィア文庫)2009年
『風雅と官能の室町歌謡―五感で読む閑吟集―』(角川選書)2013年
『虫たちの日本中世史』(ミネルヴァ書房) 2021年 等

『梁塵秘抄の世界』中世を映す歌謡 植木朝子著2014

 佐藤 優氏(神学部卒)の書評

コロナの「前」と「後」を比べる私たちに、圧倒的に足りないもの。平安時代に大流行した和歌から学ぶ

『梁塵秘抄の世界』は植木朝子氏(同志社大学大学院教授)による平安末期に大流行した「今様」の歌謡集『梁塵秘抄』に関するユニークな研究書だ。高度な学術的内容をかみ砕いて、一般の読者にわかりやすく説明している。
〈平安時代末、京都で大流行したはやり歌があった。最盛期には「そのころの上下、ちとうめきてかしらふらぬはなかりけり」(『文机談』)というように、身分の上下を問わず、それをうなって頭を振らない者はないほどであったが、鎌倉時代以後は宮廷行事の一部に取り込まれて残るだけとなり、江戸時代にはほとんど忘れ去られた歌々であった。
「今めかしさ」、すなわち目新しく派手な魅力を持つ故に「今様」と名づけられた歌謡群である。
この今様の魅力に取り憑かれた帝王・後白河院は今様集『梁塵秘抄』を編纂した。鎌倉時代末に成立した『本朝書籍目録』の「管絃」の項に「梁塵秘抄。廿巻。後白川院勅撰」とあるので、もと二十巻で、おそらく歌詞集『梁塵秘抄』十巻と、今様の歴史、口伝などを記した『梁塵秘抄口伝集』十巻から成っていたと推測される。

ただし、『梁塵秘抄』は『口伝集』巻十が群書類従におさめられていただけで、長い間埋もれていた。明治の末に歌詞集『梁塵秘抄』巻一断簡と巻二が発見され、にわかに注目をあびることになったのである。
本書の肝は、優れた解釈にある。例えば、〈君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は〉という歌についてだ。綾藺笠(あやいがさ)とは、武士が狩りや流鏑馬のときに使う藺草を編んで作った笠のことだ。
この歌を現代語に訳すと〈あなたが大事にしていた綾藺笠が落ちてしまった、落ちてしまった、賀茂川に川の中に。それを求めよう尋ねようとしているうちに、明けてしまった、明けてしまった、すがすがしい秋の夜は〉ということになる。

植木氏はそれでは満足せず、
〈大事にしていた笠が賀茂川に落ちてしまい、それを探しているうちに夜が明けてしまったという、一首の表面上の意味をとるのは容易である。しかし、この笠を探したのは誰で、どのような状況にあり、いかなる心情を歌っているのかということになると、実にさまざまな解釈がなされている〉
と指摘し、先行研究から11の解釈を紹介する。そのうちの3つをここでは引用する。

<塚本邦雄『君が愛せし 鑑賞古典歌謡』みすず書房 一九七七年
従者は苦心惨憺、水中を奔り、岸を駈け、あるいは深みを泳ぎ下り……(中略)……[若殿愛用の綾藺笠を]発見した。全身びしょ濡れで天を仰げば、東の空が薄紅に明るみ、(中略)清らかな響きをたててゐた。……(中略)……河に落ちた笠を、まさか女が、それも徹夜で探しはすまい。主従の関係を考へるのが自然である>
秦恒平『梁塵秘抄』NHKブックス 一九七八年
愛しあっている男と女と、それも若い二人で流れに沿うてさがし求めた秋の一夜の、清々しく澄みきった印象〉
榎克朗 新潮日本古典集成『梁塵秘抄』新潮社 一九七九年
「笠を落としたので心ならずも来れなかったんだ」という男の下手な言い訳をからかった遊君の歌、と解してみた。意地悪でなく、心からおもしろがっている女の口ぶりが全編にゆきわたって、さわやかな秀作〉

1つの歌について、主従関係、愛し合う男女の関係、訪問をすっぽかしたことを言い訳する男に対する遊女のからかいというようにまったく異なった解釈が可能になる。どれも説得力がある理論武装がなされている。同じ事柄でも複数の見方が可能になることを『梁塵秘抄』を通じて学ぶことができる。
現代はあらゆる分野でダイバシティー(多様性)が強調される。われわれは中世歌謡の解釈を通じてもダイバシティーに対する感覚を研ぎ澄ますことができる。

植木氏は、2020年4月から同志社大学学長に就任した。重点課題としてダイバシティーを掲げている。大学を含め近代システムの制度疲労は極点まで達している。
ポストモダンは未だ到来していない。そのような状況で、プレモダンな中世歌謡に通暁した知識人ならば、近現代と中世という異なった世界観から物事を立体的に見ることができる。危機の時代にこそ文学者が大きな役割を果たせると評者は考える。

さて、『梁塵秘抄』には様々な動植物が登場する。虫について植木氏はこう強調する。

〈虫を見つめ、虫と遊んだ人々は、虫に「なる」ことがあった。虫に「なる」芸能は他の獣や鳥になる芸能と並んで「動物風流」として民俗学の方面から研究されている。なぜ動物に「なる」のかについては、民俗芸能に現れる動物を聖なるものとする見方や、人間にとって有害な動物を演じてその害獣追放とそれによる豊穣を祈願する、あるいは逆に人間にとって有益な動物を演じて豊穣を祈願するという見方が提出されてきた。橋本裕之は、こうした人間にとって有害か有益か、信仰の対象か憎悪の対象かといった価値判断によらず、動物が抱える統御されない力、野性の力とでもよぶべきものを人間が我が物とするプロセスとして動物風流を捉えるという卓見を示した〉

虫を観察の対象として眺めるだけでは不十分で、虫に「なる」ことが必要なのだ。そうすることで、虫の内在的論理をとらえることができる。
新型コロナウイルス禍から抜け出すためにも、このウイルスになってみて、ウイルスの内在的論理を掴む作業がとても重要と評者は考える。惰性化した常識の枠を崩すのに本書はとても有益だ。